結社の自由と訴訟
2024-09-15


松竹伸幸氏が、共産党を除名処分になったとき、いくつか文章を書いたが、その後、とくに追いかけていなかった。たが、最近第二の著書を出して、党員資格の保持を求めて、共産党を司法に訴えたことを知った。おそらく、類似の訴訟もないような、新しい挑戦ではないかと思うし、人権論としても、非常に興味深いと思った。
 結局、結社の自由に関わることであるが、法論理としては「部分社会の法理」に関わることだろうと思う。
 通常結社の自由とは、ある団体(とくに政治団体)を結成したことによって、国家権力の干渉を受けない、国家にたいして、結社を禁止したり、結成に関わった人を逮捕したりすることを禁止するものである。松竹氏の除名にたいして、朝日新聞が社説で批判をしたときに、当時の志井委員長は、「朝日新聞は結社の自由を侵すのか」と非難したが、朝日新聞に、政党の結社を禁ずる権限などありえないのだから、この非難は的外れもいいところであった。
 しかし、結社の自由と関連のあることがらで、訴訟になるとしたら、それは「部分社会の法理」に関わることとして、見逃すことはできないし、また、かなりの法的難問となるはずである。私の専門分野でいうと、これまでは校則に関する訴訟で多く問題になってきたのが「部分社会の法理」である。その意味は「団体内部の規律問題については司法審査が及ばない、とする法理」というもので、その団体内部では、一般社会では許されないことでも、許されるということになっている。校則をめぐる訴訟がいくつかあったが、たとえば、以前は公立中学で、男子全員が坊主頭を校則で強制される学校が多数あり、校則が公序良俗にはんするという理由で提訴が行われたが、部分社会の法理で訴えは退けられてしまったわけである。
 しかし、現在では、そうした校則は、次第に減っているが、私は何度か、校則については、部分社会の法理は適用されないのだという主張をここで書いてきた。部分社会の法理が成立するためには、その団体のルールについて、以下のことが完全に実施されていることが必要だからである。
1その規則が事前に容易にアクセスできる形で開示されていること。
2その団体への所属が、規則を知った上で、本人の自由意思で行われること。
3団体の活動に賛同できなくなった場合には、自由に脱会できること。
 しかし、学校の校則は、この3つ条件は当てはまらないから、部分社会の法理は適用されないということである。
 義務教育学校では、本人の意思で入学するわけではなく、指定されている。 
 高校や大学、あるいは私立学校でも、校則が容易にアクセス可能になっていることは、究めて稀である。入学時点で校則を理解している生徒、学生はまずいないと考えられる。入学後に説明されるのである。
 入学は当人の自由意思であるとしても、校則がいやだから退学するという選択は、究めて困難である。オランダのように、ある学校をやめて、ちがう学校に移ることが、社会全体で保障されているような場合は別だが、日本の私立学校、高校・大学は、途中入学などは、究めてかぎられた場合しか認められない。結局、退学すれば、教育機関そのものから排除される状況になってしまう。したがって、よほど校則に不満であっても、我慢することになる。
 以上の理由から、学校の校則は、一般的な社会的感覚に適合する範囲でしか、制限を加えることはできず、社会的には認められないようなことを、校則で生徒に押しつけることは許されないと考えるべきである。

 では、政党はどうか。政党すべてがそうとはいえないだろうが、国会に議席をもつような政党は、上記の3つの条件は完全に満たしているだろう。だから、政党の内部規則については、司法は判断しないという、部分社会の法理は成立すると考えられる。したがって、松竹氏の主張は通る可能性が低いとひとまずはいわざるをえない。
 対応は、おそらくふたつ考えられる。

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