2024-09-15
多くの人が考えていると思われることは、そんな党はどうせ変わらないのだから、別の道を模索したらどうか。松竹氏のいうことが正しいとすれば、共産党は次第に落ち目になっていくだろう、そういう政党とともにする必要はないというものだ。つまり、法的ではなく、政治的な発想である。
それにたいして、あくまで司法をつかってまで、復党の可能性を探るという、松竹氏自身が追求している道である。そして、氏はそれを司法によって認められることを、現在模索している。それがいいこととは氏も思っていないだろうが、党が大会において、処分を撤回しないことをきめた以上、外部の力(司法)に頼る他に道はないのもたしかであろう。
さて、双方はどのような見解の対立があるのだろうか。
事実としては、昨年、松竹氏は共産党を除名され、今年はじめの党大会に処分撤回の申請をしたが、却下されているという状態である。そして、党員資格の認定(処分の不当性)を求めて、提訴していることになる。
処分のきっかけは、松竹氏が「シン共産党宣言」という本(党の委員長の党員による公選で選出することを主張)を文藝春秋社から出版したことが、反党分派活動であるという理由で除名を受けたわけである。「党内では、自由に意見をいえるにもかかわらず、一切党内で主張することなく、党外(出版)から党を攻撃した」という理由である。
これにたいして、松竹氏は、以下のような点を指摘して、処分が不当であることを主張している。
1 党内で意見をいわなかったなどというのは間違いで、支部の会議で頻繁にのべており、同支部の人は松竹氏の主張を充分にしっていた。
2 党首公選制という、党の決定に反することを党外から攻撃したというが、党首公選制を党の機関で正式に否定する決定をしたことはなく、したがって、公選制を主張することは、党の決定に反することを主張しているのではなく、したがって、ひとつの意見として党外での出版をしたにすぎない。党員が出版をすることはいくらでもある。
以上は、見解の対立に関してであるが、除名の手続については、党は正規の手順で処分を決定したとするが、
3 松竹氏は、規約上党員の処分は、その所属する支部での決定によるもので、その決定を上部が承認するものであるが、松竹氏の場合、所属支部では、まったく討議されておらず、当初から上部での審議が行われたのは、規約違犯であり、なぜそうしたから、支部での議論にすると、擁護の見解が強く、処分が不可能になるから、規約をねじ曲げたのであり、したがって、処分そのものが規約違犯となる。
考えるべきこととして、2点あるように思われる。
まず第一に、やめたいのにやめることができない、というのは、当然、部分社会の法理の前提に反しているわけだから、おそらく、訴訟の対象になるだろうが、やめたくないのに、ルールによってやめさせられたという場合である。部分社会においては、ルールは、自由にきめることができるのだから、そのルールが適正に適用されて、除名されたのならば、これまでの例でいえば、司法の対象にならない。
しかし、第二に、除名された事例として、ルール自体が不適切に適用された場合には、門前払いというわけにはいかないのではなかろうか。一般に部分社会とされていないが、企業で、不当に解雇されたら、解雇撤回の訴訟をおこすことは一般的といえるだろう。政党は部分社会として認められているから、不当な除名でも訴訟の対象とはならないとしたら、政党と企業は、どこがちがうのだろうか。
セ記事を書く
セコメントをする