2024-01-25
.前文「松本人志氏提訴」の訂正
前回の文章で、松本氏が提訴したのが、「分限春秋社と他の一名」となっていた、その他の一名とはだれかについて、想像としてA子さんと考え、それに基づいて書いたが、その後、「週刊文春の編集長」であると判明した。だから、松本氏側が「悪手」を採用したのではないことがわかった。しかし、A子さんを証人にたたせないことが、松本氏側の有利であり、結局は、双方の証人による証言が判断材料になるのだから、A子さんが文春側の証人として登場して、反対尋問で崩れなければ、文春側の勝訴になることは、ほぼ確実であるということは、見解としては変らない。
ついでに、これまでも書こうと思って書かなかったことを書いておきたい。
松本氏に関する議論で、ほぼ共通して指摘されることに、性加害に対する社会の感覚が変ったことがあるが、それとは異なる側面をもうひとつ加えて考える必要があると思うのである。それは、インターネットが普及する以前は、ひろく映像をともなう発信は、ほとんどテレビであった。映画などがあったとしても、日々更新されるものではなく、日常的な手段としてはテレビであった。だから、視聴率という基準で、番組が作られ、テレビは公共性の観点から番組が作られねばならない、という放送法の規定などは、事実上無視されてきた。そして、いかに公共的な観点からはあるべきでない番組も、視聴率がよければ積極的に放映されてきたといえる。
しかし、インターネットが発達・普及したことによって、テレビ局でなくても、小さな組織、そして個人であっても、映像をともなう表現を広く提示することが可能になってきた。しかも、代表的なそうした手段であるyoutubeは、アクセスすれば誰でも見ることができる形式や、メンバーだけに限定できる形式なども可能になっている。
この変化は、テレビが公共的な観点から是認できるものに限定し、特別な観点から作られるものは、youtubeなどに移行させることが可能になったことを意味している。
松本氏が関わった番組で、事件後に掘り起こされ、強い批判を受けているものがある。少なくとも、社会的意識がかわった現在では、とうてい放映できないものだろう。しかし、youtubeで見ることができる。そして、もっと特別な意味合いで作られるものは、メンバー制限型で作成すれば、テレビで放映された場合にうける批判を受けることはないはずである。
法理論のひとつとして「部分社会の法理」というのがある。一般社会においてはとうてい認められない事柄であっても、部分社会の法理が適用される場合には許されるというものである。非常におかしな校則が違法であるという訴訟が起こされても、かつては部分社会の法理で違法ではないとされることが多かったのだが、それは部分社会の法理を間違って適用した結果であり、最近では、部分社会の法理で適法とされることが少なくなった。しかし、部分社会の法理自体が否定されたわけではない。
私は校則問題を講義するときに、部分社会の法理のわかりやすい事例として、ボクンシングをあげていた。ボクシングでやっていることは、一般的には、なぐりあいだから、暴行罪にあたる。しかし、部分社会の法理が適用されることで、スポーツとして成り立っているわけである。しかし、そのために、厳格な条件が必要となる。
・あらかじめ行われることが十分に情報開示されていること。
・自分の自由意思で行うこと。
・嫌であれば、いつでもやめられること。
学校の校則は、この条件を満たさないから、一般的に極めて不合理な校則を子どもに強制することは、少なくとも部分社会の法理で適法化することはできないわけである。
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