2025-03-15
すっかり間があいてしまったが、この間旅行をしていた。いつものように、車による長距離旅行だったが、昨日無事帰宅した。今回の旅行の主な目的は、九州での親族の集りに妻が出席することと、これまで行ったことがなかった和歌山にいくことであった。そして、和歌山にいくからには、高野山にいってみようということだったが、それは、以下のような高野山への「関心」があったからである。
中学の歴史で習うことだが、平安時代に最澄と空海が、それぞれ天台宗の比叡山延暦寺、真言宗高野山金剛峯寺を建立して、その後の日本の二大寺院として今日に到っているのだが、私にとっては、このふたつは、かなり異なる印象をもっていた。というのは、比叡山は、僧兵が暴れたとか、信長に焼き討ちにあったというような武力的な面もあるが、なんといっても、日本の歴史に残る宗教家を輩出したという点で際立っている。源信、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮など、高校の教科書には必ず載っているような人物であり、彼等は、みな比叡山で学んでいるのである。一度比叡山を訪れたことがあるが、法然がこもって修行した庵などのように、彼等の庵が名前付きで存在していた。もちろん、本当のものではないだろうが、比叡山といえば、多くの人にとっては、彼等の学んだ場であると認識されているだろう。
しかし、高野山のほうには、そうした有力な宗教家、宗教上の業績をもたらした人物が見当たらないのである。仏教史に詳しいわけではないので、断定はできないが、少なくとも、高校の教科書に宗教家として歴史に名を残した人物は、なかったように思われる。wikipediaの説明をみても、比叡山では、著名宗教家が列挙されており、そうした項目が立てられているが、高野山のほうには、宗教で著名な業績を遺した人物としては、誰も記述されていない。何度も焼失しているので、寺の再建に尽くした僧侶などはでてくるが、寺社としての発展に寄与した業績に過ぎない。
この相異がなぜ生じたのか、それを肌で感じ取ってみたいというのが、今回の訪問の目的だった。時間もかぎられており、全貌をみるのとは、ほど遠いものだったが、逆に重点的に見た場所の影響もあって、この疑問がかなり明確に解けた気がしたのである。
中心的にみたところが、「奥の院」といわれているところで、2キロにわたる参道をともなっている、空海の墓所である。そして、この2キロの参道には、墓石がびっしりと両側に建てられている。そして、驚いたことに、現代の有名な大企業の名前の大きな墓石がたくさんあるし、また、東日本大震災の犠牲者供養等々があるかと思えば、著名な戦国大名や歴史的人物の墓石もみられる。
実は、最初奥の院にいく方向をまちがえて逆に行ってしまったので、長い参道のほとんどを歩くことになったのだが、そのために、この厖大な墓石群を確認することができたのだった。最初から正しい方向で行けば、これほどの墓石が集合していることは実感できなかった。そして、感じたのが、「商業主義」ともいうべきものだった。高野山の歴史をみると、建物の焼失などが頻繁に起こっており、その再建はかなり困難であったようだ。そこで、墓石を「誘致」することで、資金を集め、焼失寺院の再建をはかったのではないかと感じたのである。もちろん、有名な日本の代表的な寺院だから、そこに墓があるということは、名誉なことであるという感覚が、著名人たちにもあったのだろう。そのような双方の思惑の一致が、こうした大規模な墓石群を生みだしたように思われた。
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